第1回

最初に取り扱ったのはアメリカから輸入した

オニールのウェットスーツ

本格的にサーフィンをはじめたのは大学に入ってからで、大学は日大の農獣医学部(現在は生物資源科学部)、三軒茶屋にあった。なんで農獣医学部のなかの農学部林学科に入ったかというと、林業とか木材に興味があったわけじゃなくて、カナダに行きたかったからなんだ。カナダにはすごく大きな木が大自然の中にいっぱい生えていたので、商社マンになって、カナダの木材を日本に輸出する業務をやりたかったからなんだ。鎌倉・材木座生まれ、稲村ケ崎育ちのおれは海なんか行きたくなくて、山に行きたかった。当時、日本にむかう木材はカナダが主流で、カナダは米杉をがんがん輸出していたんだよ。それで、日本商社のカナダの駐在員になりたくて日大の農獣医学部で林業経営を学ぶために入学したで、大学3年生を迎えたある日、卒業する上級生の求人案内を見たら、すべてどこかのど田舎の有限会社の材木屋なんだ。就職先が合板屋、チョイスがそれしかないんだよ。それを見た瞬間にがっくりきて、商社マンになる夢がついえたんだ。

 大学4年で中退したあと、貿易業務を覚えようと、横浜にあるマクドナルド商会というイギリス人の貿易商社に勤めた。この会社はおもにイギリスから工業用の部品などを輸入している会社で、貿易業務の仕組みなどを覚えたので、1年で辞めて、1972年の1月1日に独立して川南商会を立ちあげた。貿易会社を辞める前から自分の会社設立の準備をしていて、1971年の暮れにオニールにウェットスーツのオーダーを出して、1972年の春に品物が届いた。船便だから、時間がかかるんだね、オーダーも電話とかじゃなくてエアメールだし。それで、鎌倉の材木座にロージーズ・ショップという自分のお店を構えて、オニールのウェットスーツや、シースルーという、やはりアメリカのウェットスーツ、ほかにも米『サーファー』誌やカリフォルニアTシャツ、古着などの輸入品を扱うこじゃれたお店をはじめた。もちろんオニールのウェットスーツやカリTは日本で初めて輸入販売していたし、当時数少ないサーフショップにも卸していた。ひとりでやっていたけど、当時1ドル360円の時代だったから、オニールウェットスーツはあまり売れなかった。1974年のオイルショックの円高で1ドル240円になったけど、日本ではウェットスーツはまだ高嶺の花だったね。

 1974年かな、あるときジャック・オニールが突然おれの店を訪ねてきたんだ。有名なヒゲは少しこざっぱりしていたけど、片目に海賊のような黒い眼帯をした異様な格好だったね。ちょうど昼飯時で、何を食いたいか訊いたら、「日本蕎麦が食べたい」って返事があったから、近所のやぶ蕎麦に連れていって、蕎麦を食べながらカタコトの英語で日本へ来た目的を訊いてみたんだ。それが、おれがウェットスーツ屋をはじめる事の始まりとなった。

 おれはもともと、アメリカのラバテックスのゴムで作るオニールのウェットスーツに惚れ込んで、高いお金を出して輸入しているのに、ジャック・オニールは日本製のゴムを探しているなんて、おれにはまったく理解できなかった。ジャックと別れたあと、彼がどこのゴム会社に行ったか調べたら、神戸の長田区にあったセド化学に行ったことが判明したんだ。来日した理由は、ラバテックスからセド科学のゴムに代えるためだった。オニールが日本製のゴムでウェットスーツを作りはじめたとなると、おれとしては「ちょっと待ってよ、ふざけんなよ」ということになるよね。それから2年ぐらいして、おれは自分でウェットスーツを作ることにしたんだ。1976年のこと。セド科学に現金で100万円払ってオニールに納品している生地をオーダーしてしまったんだ。ウェットスーツの作り方さえまったく知らないのに、生地まで買って自分を追い込んでしまった。最初のオーダーで、4トントラックでパレット2個、150枚ぐらい運ばれてきたかな。1枚が2メートルx1.2メートルで、1枚でフルスーツ1着分作れるんだ。