ホビー・アルター その4
アルターとクラークが開発したウレタンフォームのブランクスによる新しいサーフボードは、まさにサーフィンの世界を劇的に変化させた。映画『卒業』(1967年公開)で、「プラスティックにこそ未来がある」というその当時の社会情勢を反映した言葉が劇中に盛り込まれているが、サーフィンの世界でも同じことが起きていた。アルターとクラークによるウレタンフォームのブランクスが完成した翌年に映画『ギジェット』(1959年)が公開され、アメリカではサーフィン(とサーフボードの需要)が一大ブームになる。スティーブ・ペズマンは、ウレタンフォームの完成と映画『ギジェット』によって1960年代初頭には数千人だったサーファー人口が数百万人へと飛躍的に増えた(数字の根拠は示されていないが、サーファーの数が爆発的に増加したことは間違いないのだろう)と『ザ・サーファーズ・ジャーナル』誌に書いている。また、アルターはのちに「あの映画がバルサの時代に出ていたら、サーフボード・メーカーはどこも供給できなかっただろう」と述懐している。
1960年に入ると、ウォーカー・フォーム、フォス・フォームなどのウレタンフォーム・メーカーがブランクスの供給をはじめたことにより、サーフボードの生産は飛躍的に増え、1960年代はアメリカのサーフィン産業にとって、とりわけサーフボード産業にとってゴールデン・ディケードをむかえることになった。
ホビー・サーフボードも例外ではなかった。ブランクスは週250本ほど生産され、サーフボードを増産するためにアルターは、フィル・エドワーズやレイノルズ・イエーターなど、ほかのボードビルダーを雇い、また発泡技術とグラスファイバー技術を向上させるために、ハワイからジョー・クイッグを呼び寄せ、需要に対応したという。その後、ラルフ・パーカーやテリー・マーティンのような大量生産型シェイパーが登場し、彼らは長年にわたって何十万枚ものサーフボードをシェイプしてきた。ほかにもホビー・サーフボードに係わったシェイパーにはデューイ・ウェーバー、ミッキー・ムニオス、コーキー・キャロル、ドン・ハンセン、ブルース・ジョーンズ、パターソン兄弟などがいた。こうして、アルターは本業のサーフボード作りが忙しくなり、1961年にはゴードン・クラークはアルターからウレタンフォームのブランクスの製造権利を買い取り、クラーク・フォームとして独立することになる。
写真:Source: URL Surfing Handbook
参考文献:『Hobie: Master of Water, Wind and Waves』 by Paul Holms、『The Surfer’s Journal』、EOS(Encyclopedia Of Surfing)
Comments