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ミッチー その2

文:川南正


サーフショップを経営しているミッチーは、どういうわけか、友だちがひじょうに少ないんだ。ただ、サーファーだから横のつながりがあるから、当時、サンディエゴに住んでいた3人の「RUSH」のライダーと飯を食ったり酒を飲んだりして話していたら、ミッチーのことを「彼はひじょうにクールなやつだ」って言うわけ。日本人にしてみれば、「クール」という言葉はかっこよく聞こえるけど、むこうのやつらからすると、「冷たい男」っていう意味なんだね。「しっかり者だ」って言うわけ。たしかにそうなんだね。高校生のころからサーフィン用具をサーファーたちに売って小遣いを稼いで、その金をコツコツ貯めて、サーフショップをはじめたり、おれが行ったときもそうだったけど、サーフショップって名前は付いているけども、ミッチーがやっていることはサーフィン用品のディストリビューターなんだ。3畳ぐらいの店なのに、そこにウェットスーツが5着ぐらいと、あとワックスとか置いてあるんだけど、裏にはでっかい倉庫を借りていて、そこにフォームを何100本もしまってある。当時、カリフォルニアではガレージシェイパーが増えはじめていて、店に来るやつは、みんなピックアップのトラックで来て、「フォームを1本売ってくれ」、「2本売ってくれ」って集まってくるわけ。ミッチーはそんなガレージシェイパーたちとキャッシュでビジネスをするんだよ。彼のすごいところは、「人を見る目がある」って言うのかな、大丈夫だって思うやつには、そいつが金を持ってなくてもツケで売っていたんだよ。おれはそんなミッチーのビジネスの仕方を見ていて、「こいつ、すごいな」って思ったね。それから、彼はツケとかをいつもちょこちょこってメモ書きをしているんだけど、そのメモ書きを束にして無造作にかばんに押し込んでいる。そんなミッチーのいい加減さに関して、おれは「こいつ、大丈夫かな」って思うんだ。ある日、銀行だか税務署だかに呼び出されたので、いっしょについて行ったんだけど、「税金を払わなければいけない」って、ミッチーはかばんの中の領収書の束を机の上に並べて、税金を払っていたよ。ミッチーはかばんの中でちゃんと管理していたんだね。おれは旅をしていたせいもあるけど、レストランに行ったらカードかトラベラーズチェックで払っていたけど、ミッチーはキャッシュ。いつもポケットに現金をぎゅっと詰め込んであるんだ、5ドル、10ドル、20ドル札を束にしてポケットに詰め込んでいるんだよ。でも普段は「飯食いになんか行かない」って言っていたもの。独り者だし、彼女もいないしさ。いまでも結婚していないんじゃないかな。ぜんぜん、口きかないし、冗談のひとつも言わないし。でも彼は無口な田舎者で、日本人が大好きなんだよ。行ってみてごらん、おれはそんなミッチーが大好きだ。

 さて、ミッチーとはじめたウェットスーツのビジネスだけど、おれは、ウェットスーツを作る職人が5人いれば、カリフォルニア中のウェットスーツをまかなえると考えて、日本からミシンやゴムの生地を送って、職人たちも派遣してアメリカでウェットスーツの生産を開始したんだ。ミッチーと話をはじめてから1年ぐらい経ってからかな。それから、ラバテックスの生地もアメリカで手に入れて、使ったんだけど、あまりよくなかった。ラバーはすごくよかったんだけど、貼ってあるジャージがいまいち硬くてよくなかったね。そのとき、内心、おれは「RUSH」ブランドで世界制覇しようと思っていたんだよ、本気で。でも、おれの夢がでかすぎて、おれの言っている意味がまわりに伝わらなかったよね。おれは先に進みたいから、サンディエゴに行って工場を造り、隣には、ライトニングボルトだったかな、G&Sだったかな、サーフボード工場があった。アムトラックの電車が通る線路の脇のウエアハウスを借りて、はじめたんだ。ラ・ホヤの丘の裏のすぐ下で、なんて言ったっけな、地名を忘れたよ。このプロジェクトは全部ミッチーが金を出したんだ。たぶん2,000万円じゃ、済まないんじゃない。日本人の職人の給料も出したんだもの。最初に行くときに、「RUSH」で働いていた工場の連中に「カリフォルニアに行きたいやつ?」って手を挙げさせたんだよ。最初からワーキングビザは取れないから、観光ビザでアメリカに入って、エクステンションして、事実を積みあげてからワーキングビザを取ればいいって考えていたんだ。ミッチーは最初から、「会社からイミグレーションを通してもいいよ」って言っていたけど、そんなことをしていたら時間がすごくかかるし、早くスタートさせたかったから、問題が起きたらあとで考えればいいし、職人たちもいつまでつづくかわからないし、とりあえずスタートさせたんだ。おれも最初1カ月ぐらいいたんだけど、家から連絡がきて、「私たちを捨てるの?」って言われて、とりあえずおれは日本に帰国。連れてった職人のひとりも1カ月もしないうちにノイローゼになって部屋にこもりきりになっちゃったので、「帰れ」って日本に帰国させたけど、3カ月が過ぎ、半年を過ぎると、職人たちはぽろぽろと帰ってきちゃって、最後の職人のひとりは1年しかもたなかったね。で、最後は責任者として派遣した男とベトナム人のおばちゃんのふたりでウェットスーツを作っていた。その後3年ほどやったのかな。ただ、どういうわけか、アメリカはウェットスーツ屋、とくにサーフィン用のウェットスーツ屋が少なかったから。大きいところではオニールとボディグローブぐらいしかなかったからね。また当時、日本からはビクトリーとホットラインがカリフォルニアでウェットスーツ製造をやりはじめていた。最後は、ミッチーが持っているプール付きの家をウェットスーツの工場にして、ベトナムのおばちゃんを2人使って、細々とウェットスーツを作り、修理などをやっていた。カリフォルニアでのウェットスーツ製造は、おれにとっては、ほろ苦い思い出のひとつになってしまったよ。


ジャーナル日本版の7.1号を見ていたら、懐かしい顔が出てきた。クラークフォームのロゴが入ったセーターを着たミッチーだ。うしろにはフォームの山。1974年にジョン・フォスターが撮影したと書かれている。ザ・サーファーズ・ジャーナル日本版7.1号からのキャプチャー。

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