文:川南 正
ぼくが生まれたのは、戦後の昭和の鎌倉。海が好きだった父と母が戦争で焼け出された東京を諦めて、戦後、この鎌倉に移住した。物心ついた頃から稲村ヶ崎の海で遊び育って、ウン十年。気がついたら、サーフィンをはじめ、現在に至る。
ぼくもあと10年後には、もう稲村の海で遊ぶこともなくなるかも? だから、いまさら稲村の海の異変についてぼくが言わなくても、今後、ぼくよりも若い人たちが考えればいいかと思っていたが、気が付けば、昔の稲村ヶ崎を知る人間も減り、海の異変を思う人もいなくなりつつある。
そこで、ぼくがサーフィンをやめてしまう前にウェットスーツの話ではないことを書き留めておきたいと思う。
1960年まで、稲村ヶ崎には大きな砂浜が存在していた。これは、腰越小動岬から稲村ヶ崎まで眩しいほどの白い貝殻の砂浜が続いていた。
その後、ゼネコンによる開発がはじまり、山を削り埋め立てて、今の七里ガ浜分譲地ができ上がった。そのときに湧いて出てきた話が、腰越から稲村ガ崎にかけて134号線沿いの、大レジャーランドを造る計画だった。
さすがにこの話は大きすぎて規模を縮小したらしく、現在も残るのは江ノ島のヨットハーバーと七里ガ浜の西武の駐車場。
その後も、稲村ヶ崎の開発計画などなど、いろいろ湧いて出てきたが、ほぼほぼ大きな計画は住民の反対運動などで消滅したように見える。
本来、鎌倉市の古都保存法なるものにより、稲村ガ崎から七里ヶ浜にかけての海岸線と松林保全が叫ばれてきたなか、「そんなことはどこ吹くかの風の如く」、今や赤や黄色に塗られた家や、さらに大きなコンクリートの建物で覆われている134号線。
しかし、各地で問題になっている海岸線の砂の流失問題で、鎌倉、とりわけ稲村ヶ崎の砂がまったくなくなり、あげくの果てに134号線の道路の陥没事故などにより、稲村ヶ崎の海岸工事がはじまった。
この工事について、神奈川県土木事務所に訊くと、「工事は中断している…」とのこと。「ウーン? これが怪しい」
この写真は、ぼくが稲村ガ崎小学校1年生(1954年)、初夏の稲村ガ崎海岸。
正さんご無沙汰してます。1954年ということは自分が1歳の時の写真です。この頃も稲村は砂鉄の混じった黒っぽい砂浜(海の家や監視所があったあたり)だったのでしょうか?